久しく忘れていた“昭和元禄”という言葉を思い出せてくれる、東宝としては異色の青春映画。恩地日出夫監督「昭和元禄 TOKYO196X年」(1968)。

僕はこの映画を、1968年10月28日に見ています。併映は「砂の香り」。浜美枝が気に入っていて、その姿を美しく見せてもらえれば満足なはずだったのに、フォトジェニックなつもりの映像が僕の好みに合わずダメでした。その反作用もあったのでしょうか、僕は「昭和元禄 TOKYO196X年」を好感を持って記憶しています。

物語は、ベトナムから戻ってきた週刊誌の記者・五代(伊丹十三、当時は一三)が、いまいち国内での仕事に乗り切れない中、同僚の村井(橋本功)からアルバイトを持ち掛けられます。それは、フーテンを刺し殺して逃走中の若者(出情児、今は井出情児)に、雑誌社が雇ったモデルの女性(吉田未来、よしだみき)を近づけ、詳細なレポを取るというもの。五代は気が進まないまま、とりあえず取材につきあう、という展開です。

今見直すと、何が気に入ったんだろうという印象です。申し訳ないけど、何一つ面白くない。せいぜい伊丹十三の記者が、なんとなく世をすねた感じなのですが、そのすねかたに後ろめたい気分を宿している、それだけでした。あのころ大学では学生運動が盛んで、この映画にも“三派全学連のデモが”と紹介されています。

今となってはその三派が何だったかという説明なども意味がないけれど、いちおう僕が支持した一派は僕に物事の考え方の基礎を叩き込んでくれたと思っています。つまり、僕が支持した一派は、むやみに仲間を引きずり込んで行動を強いたりしなかった。それがとてもよかったと、現在まで生き延びている僕は思うのです。生きていてなんぼ、死んで花実が咲くものか、とね。

もちろんびびりの僕は、デモにだって参加したことがないわけで、そんな僕の心とこの映画の殺人犯の若者とは、ある意味似通った発想をしていたのでした。それは今では当たり前となっている、自分の気持ちを最優先させることであり、そのために我田引水ながら自分なりの意味付けをする、ということでした。

そういう視点から、“昭和元禄”の時代を振り返るのなら、この映画は一つの証左ではあります。しかし、あの時代若者だった我々と倉本聰恩地日出夫たちとの間には(そして伊丹十三とも)歴然とした断絶があり、それは橋本功がいかに怒鳴って正当性を主張しても、せいぜい彼も出ていたテレビドラマ「若者たち」のメッセージと同様にしか響かないわけです。

このすぐあと、フォークゲリラと呼ばれる連中が登場し、それらの動きを含めてベルウッドレコードなどのフォークソング・ブームがありました。僕はそこへ就職していきます。幸いにして僕が惚れた女性は、僕と生活を共にして僕を支えてくれたから、この映画の出情児のような悲劇的結末は迎えずに過ぎました。いや、でもあの結末は、東大ギリシャ悲劇研究会出身の倉本聰が、テキトーに取って付けた結末でしょう。映画を終わらせるには主人公の死が最も簡単ですから。

ということで、昭和元禄を知らない人は今さらそんなものを知ろうとしないでください。よい子は不良の真似をしてはいけないのです。そんな現象だけを追うよりは、その現象を生んだ本質をつかまえてください。それが肝要です。

付記しますと、翌日の1968年10月29日に僕は、深作欣二監督の「恐喝こそ我が人生」と野村芳太郎監督の「白昼堂々」を見て、31日には内田吐夢監督の「飛車角と吉良常」を見ています。2日前の26日にはロジェ・ヴァディム監督の「バーバレラ」、そしてその2日前の24日には、グラウベル・ローシャ監督の「白い悪魔と黒い神」でした。18日には小川紳介の「三里塚の夏」か。こう並べるだけで“時代”がよみがえりますね。